TOEICと英検の二刀流でいい
TOEICが先か?英検が先か?
英語学習者にとっては、悩みどころである。
学生なら英検、社会人はTOEICという線引きを主張する人たちがいる。
極端にいえば、「社会人は英検をやるのはムダ」という意見である。
いわく、
・英検はビジネスで求められない
・英検は趣味の世界
・英検対策は時間がもったいない
というポイントに集約できる。
でも本当にそうだろうか?
以下に、こうした社会人の英検批判について自分の考えを述べていく。
1.ビジネス局面でゼロ?
さるTOEIC教育者が自らの経験から、こう述べていた。
「ビジネスの世界で、私が知る限り、英検を求められたのはゼロ」
つまり、ビジネスの世界では、英検のスキルアップはお門違い。
社会人たるもの、ビジネスで求められない英検に力を注ぐのはNGであると。
果たしで、そう割り切れるものだろうか?
著名なTOEIC教育者が、英検と共にやり玉にあがるのに「英字新聞」がある。
「英検」にせよ「英字新聞」にせよ一端一聴がある。
TOEIC学習者が英検や英字新聞にも手を出すのは、英語を多面的に展開することで悪くはないことだと思うが、なぜ、それほどTOEIC至上主義に固執するのか?
もちろん私も社会人の端くれとして、昇進や収入増につながるのはTOEICであることは認めれる。
けれども、ビジネスの社会においては、何も「英検」や「英字新聞」で得た知識が不要であるとは思わない。
むしろ、コミュニケーションを重視しているとういTOEICよりも、英検や英字新聞で培った時事問題などのほうが、実際に英語をネイティブとする人との信頼感や親近感を持たせるスキルとなっている。
TOEICを優先して、英検や英字新聞の効用を軽視する方は、こうしたビジネスの実情をひょっとしたら知らないのかもしれない。
2.「趣味の世界」批判
TOEICを優先する学習指南者にとって、別に英検を非難しているわけではない。
「私はなにも趣味で英検を取る人たちまで批判しているわけではないですよ。
私の知らない英語資格もあるので、そういう方は、片っ端から資格を取ればいい」
言葉の節々に感じるのは、英検への批判である。
だいたい自分との違う意見を「趣味の世界」とバッサリ距離を置く輩は気をつけたほうがいい。
英検が趣味の世界なら、なぜTOEICが趣味の世界ではないのか?
私は、TOEICも英検も、そこに趣味的アプローチ、つまりゲーム感覚があるからこそ、社会人が英語をやるべき意義や動機づけがあると思う。
「好きこそモノの上手なれ」
こういうように、TOEICにマウントを置き、英検を軽視する姿勢は、どうにもよくわからない。
ビジネスの社会がTOEICを重視しているのはアプローチの違いであって、本人の努力や背景の点でなんら遜色はないと思う。
個人的は、小手先のTOEIC対策だけをやってきた人間を重宝するほうが、よっぽど偏っているように思えるのだが…。
3.英検は時間のムダ?
社会人の時間は有限である。
貴重な時間にTOEICばかりではなく、英検にまで割くのは失当である、という。
果たしてそうだろうか?
私は、TOEICが優れて、英検が時間のムダだとは思わない。
むしろ、TOEICにせよ英検にせよ、英語勉強の挫折こそが、もっとも時間のムダであると考えている。
それまでも努力が水の泡と消えるので。
どんな手を使っても、英語力は日々の継続が第一と考えている。
もしも、(今の私のように)TOEICスコアが頭打ちになり、行き詰まりを感じたら、「英検」にチャレンジという目先を変えることはアリだと思う。
それが「たとえ遠回りにせよ)時間のムダだとは思わない。
さらに社会人(ビジネスマン)は、仕事のみならず、たとえば、父親、母親という役割もあるだろう。
英検が学生向けの資格であるならば、親として、子供と一緒に英検にチャレンジすることは、TOEIC一辺倒よりも人間としての幅が広がるのではないか?
4.まとめ(二刀流でいい)
TOEICはビジネスの世界に重宝する。
それに比べて英検は、時間のムダだからやってもしょうがない。
そうした極端な発想こそ「真のビジネスマン」の在り方としてどうなのか?
ビジネスマンも人間である。
それは、何のために働いているのかにつながっている。
TOEIC学習指南者の英検批判はぜひ再考してもらいたい。