「英語は道具でない」への反論
2022年3月23日、朝日新聞オピニオン欄に興味深い記事が掲載された。
「何のための英会話」と題するその記事。
「あなたにとって英会話とは何でしょう」という意見を募り、その反響が大きかったことを受けて、立教大学名誉教授の鳥飼玖美子さんがコメントする構成であった。
その中で、私に関わることを述べる。
同記事は「英会話」としているが、私は便宜、「英語」と置き換える。
「英会話」と「英語」は厳密には違うかもしれない。
けれども記事を読んでみると、「英会話を勉強すること」は、つまり「英語を勉強すること」なので、あえて差異には言及しない。
9つの読者投稿が紹介され、中でも自分が関わる意見は、次の3つに収れんされる。
・武器としての英語
・娯楽としての英語
・道具としての英語
以下、自分の「オピニオン」を展開していくことにする。
1.武器としての英語
「自分の学歴コンプレックスをカバーするための武器。勤務先で同僚に負けないため、金と時間を使って資格試験を受けた。その結果、定年まで英語力では誰にも負けかなかった」(70代)
私が英語の勉強にこだわるのも、この意見に近い。
英語は、会社で生きのびる(戦力外を受けない)ための武器である。
自分には、コメントの「学歴コンプレックス」はないが、「英語コンプレックス」がある。英語堪能な社員ばかりが優遇され、英語ができない先輩をバカにする風潮があり、そんなヤツに「ひと泡吹かせてやりたい」という気持ちがある。
「負け犬の遠吠え」はしたくなかった。
30代、40代と大きな病気を患い、出世街道から外れたことも、英語に固執する一因である。
どうやら同期や後輩たちが、どんどん私を追い抜いて「出世」していく。
そんな中、自分のアイデンティティを死守するために英語に縋っている。
英語は得意ではなかった。
けれども、英語が出来そうな人に見られていたことがある。
ビートルズやローリングストーンズのファンである私。二次会のカラオケでは、洋楽を歌うことを常としていた。
「洋楽好きの君は、さぞや英語も得意なんだろうな」
この言葉に、いつも苦しめられていた。
この痛みを克服するにはどうするか?
自分が英語を勉強して、それなりに「できる人」になることを誓った。
以来、出世遅れとイメージギャップを埋めるため、英語に邁進している。
2.趣味としての英語
「中学生になり洋楽を通じて英語に触れ、響きにひかれ興味を持った」(70代)
前述のとおり、私も中学生でビートルズやローリング・ストーンズにガツンとやられたクチである。
洋楽ロックが好きで、嵩じて、英語が好きになった。
私が英語に興味を持ったのは、もちろん洋楽が入り口であった。
さらに拍車をかけたのが、高校時代の恩師との出会いである。
そしたら、ふたりの先生からえらく気に入られた。
ビートルズの「ア・ハード・デイズ・ナイト」をリスニング授業に取り上げてくれたT先生。ローリング・ストーンズの「ビースト・オブ・バーデン」の歌詞をテスト返答用紙の余白に赤ペンで書いてくれたS先生。
特に、T先生とは、いまでも年賀状のやり取りがあり、私の英語学習のメンター(師匠)になっている。
英語が趣味と言えるのは、洋楽ロックが好きだからである。
ビートルズやローリング・ストーンズのことがもっと知りたい。
彼らが何を歌っているのか探求したい。
カラオケで、ジョン・レノンやミック・ジャガーになりきりたい。
そんなことが、英語学習のモチベーションになっている。
洋楽を通して英語に触れ、英語の恩師にも出会えた。
それが英語好きになった理由のひとつ。
3.道具としての英語
「しょせん英語はツール。言いたいことが相手に伝わるのではあれば、細かい発音にこだわる必要性が薄い」(70代)
これに関して鳥飼さんの論調は手厳しい。
「英語は単なる英語ではありません。この見方を崩さないと、本当の意味で英語ができるようにななりません」
私は鳥飼さんの考えに異議を唱えたい。
そもそも「本当の意味で英語ができる」とは、どのレベルを指しているのかがわからないけれども、「英語はたんなる道具である」という考えもあってもいいのではないか?
英語ができるとは、ドラえもんが勧めてくれる「便利な道具」のひとつであってもいいと思う。「英語ができない」という状況よりは…。
英語の勉強が大事ではなく、その先に「英語で何をやるかがが大事」。
これは耳の痛い話である。
特に、TOEICや英検を「ロールプレイゲーム」として割り切っている私みたいな人間への批判が投げかけられる。
パソコンも一緒で、パソコンができるのではなく、パソコンで何ができるかが大事だと言われる。
でも考えて欲しい。
そんなに「スキルを使って何をやるか?」はそれほど大切だろうか。
スキルは、持っていることに意義があるのではないか?
職場にパソコンが得意なY君がいる。
WEB会議の設営や、パスワードの更新など、とても世話になっている。
Y君も「パソコンのことなら俺に任せろ」という自負があるらしい。
その存在は、同僚としてとても心強い。
けれども、失礼を承知でいえば、別に私は、「Y君が、パソコンを使って、結局、何がやりたいのか」ということは、そんなことはどうでもいいと思っている。
パソコンに明るいY君の存在自体がありがたいのである。
私にとって、Y君は「道具としてのパソコンを使いこなせる魔術師」である。
だから、日頃から世話になっているY君には、できるかぎり、他のことでチカラになりたいと思っている。
もしもY君が英語のことで困っていたら、私のスキルで寄り添いたいと思っている。
それこそ「道具としての英語」の真骨頂ではないだろうか?
英語を通して職場や社会に貢献できる。
それは素晴らしいことだと思う。
だから「道具として英語」を割り切ってもいいと考えている。
鳥飼さんのように、「英語はコミュケーションの手段や異文化理解のパスポートであって、たんなる便利な道具ではありません」
こんな「正論」こそが、英語嫌いを生み出しているのではないだろうか?
(なぜ、英語教育者がそのことに気づいていないのかがもどかしい)
4.まとめ(何のための英語)
以上のとおり、なぜ英語をやっているのかについては、
・武器として有益だから
・趣味として最適だから
・道具として便利だから
英語の存在は、自分の立ち位置をはっきりさせてくれる。
そこには、多言語・異文化への尊重の気持ちは無い。
もっといえば、そんな「きれいごと」に学習者はうんざりするのではないだろうか。